吉村虎太郎生誕の地 (10 画像)
明治維新の志士吉村虎太郎は、芳生野村庄屋吉村太平の長男として、1837(天保8)年4月18日この地で呱々の声を上げた。
生まれながらに鋭敏な頭脳と果敢な行動力をもっており、幼児期のエピソードにもその面目が躍如としている。
高知城下の楠山塾で学び、父の死後の嘉永元年、12歳にして早くも北川村庄屋に就任、それぞれの地に優れた治績を残している。
1861(文久元)年土佐勤王党の結成とともに加わり、翌年には武市瑞山の命で長州に赴き、久坂玄瑞に会い深い感銘を受け、以来彼の行動は武力討幕に一徹する。その年に脱藩して京へ出るが、寺田屋の変で捕えられ土佐に送還された。1863(文久3)年に再び脱藩し、人権尊重のため封建打破を志し、蹶然として世直しの大業に身を投じ、東奔西走同志と相計り、同年8月、天誅組の総裁として大和義挙の采配をとり奮戦した。
時に、八・一八の政変起り戦は利あらず転戦負傷の身を同年9月27日、大和東吉野鷲家口に至り遂に敵銃弾の集中を受け、「吉野山風に乱るるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ」と辞世の句を残し、27歳を一期として果てた。龍馬も手紙でこの天誅組挙兵に触れて「大和国ニてすこしゆくさ(戦)のようなる事これあり、其中ニ池内蔵太、吉村虎太郎(略)先日皆々うちまけ候よし。(略)あわれに存申候」と感想を述べている。
この遺業が曙光となって衆人を動かし5年後に大政奉還の大改革となったのである。

高知県高岡郡津野町芳生野甲

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