城下町長府 (28 画像)
長府の町は、古く仲哀天皇が神功皇后と共に九州の熊襲を平定するため西下し、この地に豊浦宮を建てたと伝えられ、日本書紀の中に登場する。
古代は、646(大化2)年に名毎の国府として長府と呼ばれるようになり、長門国府、長門国分寺、長門鋳銭所等の所在地として、長門国の政治経済、文化の中心となり、交通、産業等が栄え、中世には守護職である厚東氏、大内氏の支配を受けた。
1600(慶長5)年関ヶ原の合戦後、毛利秀元が城主として入府し、萩の毛利家支藩の長府毛利藩(5万石)となり、串崎城が築造された。
以来武家屋敷の町として平和な藩政時代を過ごしてきたが、幕末に至り俄然、倒幕拠点の地として目覚め脚光を浴びてくる。
文久、元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と長州藩は激動と苦難の道を辿ることになるが、1864(元治元)年12月15日、功山寺における高杉晋作、回天の義挙により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎えることになる。
また、世界的名声を博した狩野芳崖、乃木希典大将の出身地でもある。
城下町の構成は、城に近い場所に大身の武士を、周辺に広がるに従って軽身の家臣を配し傾斜地を利用して横に長く武家屋敷を展開した。また町人は、中世以後に、忌宮を中心に、その門前から北と西へのびる山陽道に沿って町家を造った。そのほか国分寺、功山寺など、代々為政者のひごを受けた寺院が点在し、城下町としての環境を保っている。
長府の城下町は、律令時代からの歴史的伝統を尊重しつつ、それに新たな町を付け加えて城下町としての整備をしたところに「城下町長府」の特徴がある。
現在残されているものは、武家屋敷の屋敷構えであり、それは屋敷廻りの練塀と門、あるいは長屋など街路に面した構築物で、練塀は築土の上に中塗をほどこしただけのものが多く、擁壁と練塀およびその裏の植栽によって作り出された街路空間の良さは、重要な文化的遺産であると考えられる。
下関市では、日本の伝統的な町造りの技法のひとつであるとされる擁壁と練塀からなる地割と街路空間を保存するため、練塀などを文化財に指定し、保存維持に努めている。

●旧白石家門
●狩野芳崖宅跡
●長府毛利邸
●菅家長屋門・練塀
●松嘯館跡(旧松岡家主家跡)
●三吉慎蔵生家跡
●横枕小路
●長府乃木旧邸
●三吉慎蔵宅跡
●功山寺
●長府博物館
●豊永長吉生家跡
●長府庭園

・山口県下関市長府
公式ホームページ

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