金閣寺 (43 画像)
正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれている。
北山という地名は平安時代に遡るといわれるが、平安時代の北山には霊厳寺、興隆寺、法音寺等の寺院が建てられていた。また天皇の陵墓をはじめ多くの塚があり、火葬が行われたころでもあった。この土地はやがて鎌倉時代に権勢を誇った西園寺家のものとなり、公経によって「北山第」という豪壮な山荘が営まれた。
西園寺家はもともと藤原氏北家の出であり、最初は余り注目されるような家柄ではなかったが、西園寺公経の代になると、一躍朝廷の中心人物となり、その権勢は当時の摂関家のそれを凌ぐほどになった。この時代(1220年頃)に、今の金閣寺の敷地に着目した公経は、氏寺として西園寺の建立を思い立ち、自らの所領尾張国松枝庄とこの地の交換を、所有者 神祇官伯家に申し入れ、その話を実現した。当時の造営に関する史料は何一つ残っておらず、模様については知ることはできないが、ただ1224(元仁元)年に盛大な落慶供養を行い、翌年藤原定家が初めて西園寺・北山第を見たことなどが分かっている。定家によれば、その趣は比類のない斬新なもので、中でも高さ45尺の滝と碧瑠璃を湛えたように美しい池には一驚したという。藤原道長の栄華を象徴した法成寺を念頭に置き、さらにそれを凌ごうとした公経の西園寺・北山第は、造営当時、地上の仙境、此岸(しがん)の浄土ともいわれたが、鎌倉幕府が倒されると共に西園寺家は惜しくも衰頽し、同時に西園寺・北山第は荒廃の一途を辿っていった(当時の遺構としては、僅かに池だけが残っている)。
この荒廃していた西園寺家の西園寺・北山第を譲り受けたのが室町幕府第3代将軍足利義満であった。
義満は室町に室町第を造営し幕府を移した。そこは花の御所と呼ばれ、政治の中心地となる。そして夢窓国師の弟子であった春屋妙葩禅師について参禅弁道にはげみ一寺の建立を思い立ち、幕府の隣に相国寺を建てた。この相国寺を中心に五山文学が生まれ文化の中心地としても栄えた。義満は、1394(応永元)年将軍職を僅か9歳の義持に譲り、翌年自らも38歳の若さで出家した。
西園寺・北山第を譲り受けた義満は、1397(応永4)年、ここに山荘北山殿を造営すべく工事を開始した。庭園、建築共に可能な限りの粋をつくしたが、中でもとくに趣向をこらしたのが、舎利殿つまり金閣だった。一層に釈迦三尊が安置され、二層目は観音殿、三層に仏舎利がおさめられた。1408(応永15)年後小松天皇の行幸を仰いで、義満は盛大な宴を開いたが、これは北山行幸と呼ばれ、今に語りつがれている。また、対明貿易をはじめた義満は明の勅使を北山殿で迎えており、この時代の文化を特に北山文化という。義満は51歳でこの世を去るまでここに住んでいた。義満の死後義持は夢窓国師を勧請して開祖とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられた。
将軍家の庇護のもとにあった多くの禅院は、将軍家の権威の衰退と共に経済的にも困難に陥っていく。そして応仁の乱の勃発によって、本山相国寺をはじめ多くの禅寺が焼討にあい、鹿苑寺もその被害にあったが、金閣、石不動堂、護摩堂などは焼失を免れた。その後足利十五代の歴史は終わりをつげ、安土桃山の激変期を経て、徳川家康によって平安の時代となる。
徳川家康の命により鹿苑寺住職となったのが西笑承兌だった。西笑和尚は豊臣秀吉、徳川家康の二人に政治顧問として重用され「黒衣の宰相」といわれた人である。西笑承兌によって鹿苑寺はその経済的基盤を固め、以後、西笑の法系によって受け継がれてきた。
明治時代の鹿苑寺は庇護者をなくし、その経済的基盤を失った。また廃仏毀釈の法難などさまざまの困難を経験するが、歴代の住職の努力によってそれをを乗り越え、維持されてきた。拝観者を最初にうけ入れたのは、明治27年であった。大阪で「共進会」(今の博覧会)が開かれた際に当時の住職であった貫宗長老によってはじめられた。
1950(昭和25)年7月2日未明、徒弟の放火によって金閣が焼失する事件(作家・三島由紀夫はこの事件をモデルに「金閣寺」を発表)もあったが、5年後の1955年に再建され、1994(平成6)年にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。

・京都府京都市北区金閣寺町
公式ホームページ

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