将門首塚・酒井家上屋敷跡 (6 画像)
●将門首塚
今を去ること1150有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし、忽ちにして坂東8ヶ国を平定、自ら平親皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治2年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀仏という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。この地は神田明神創建の地である。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では、国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃(かんばつ)が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情は極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と、将門を祀る神社がある。このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は、武士の台頭の烽火であると共に、弱気を助け、悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。
毎年9月彼岸の日には「将軍塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦(ほうれん)・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所である。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれる。
故跡保存碑は明治39年5月に建立されたもので、裏面の大蔵大臣・阪谷芳郎撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。

●酒井家上屋敷跡
江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。

東京都千代田区大手町1-2

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system