藤村旧栖地 (5 画像)
明治時代の有名な小説家で詩人の島崎藤村が、27歳の明治32年から6年間、新婚の冬子夫人とともにここへ住んだ。士族屋敷跡で棟続きの草ぶき平屋建て南側に主婦部屋、茶の間、台所、北側に書斎、書生部屋、納戸物置と続いていた。藤村が住んでいた建物はもうなく、佐久市前山の貞祥寺に移築され、屋敷跡には有島生馬氏の筆で「藤村舊栖地」の碑が建てられている。
島崎藤村は、小諸義塾という中学校の先生になるため、東京からやってきた。その頃、小諸には小学校より上の学校がなかったので、小諸の人が力を合せて小諸義塾という学校をつくり、立派な先生をたくさん東京から呼んできたのである。藤村の担当は国語と英語であった。
藤村のつくった「小諸なる古城のほとり」ではじまる「千曲川旅情の詩」は、多くの人々に愛され、小説の名を有名にした。また、この小諸時代に「破戒」などの作品が生まれた。 この住まいのことを藤村は次のように書いている。
「わたしの馬場裏に借りた家は古い士族屋敷の跡、二棟続いた草ぶき屋根の平屋で、壁一重へだてて近在の小学校へ通う校長の家族が住んでいた。付近には質屋仕立屋などがあり、家の裏側の細い水の流れを隔てて水車小屋の見えるようなところだったが、小諸本町には近く、しかもわりあい閑静な位置ではあった。」
この井戸は、藤村夫妻が、毎日水を汲みに来た井戸である。その頃は、ロープと桶で水を汲み上げるつるべ井戸だったようである。
「信州の小諸で暮らした7年間のことを考えてみても、先ず自分の胸に浮かんで来るのは、あの小諸の住居の近くにあった井戸端です。」と、藤村は書いている。
お嬢さん育ちであった冬子夫人が、てぬぐいを頭にかぶって着物をしりっぱしょりして、つるべ井戸から水を手桶けに水を汲んで、桶をさげて持ち帰る姿を、近所の人は毎日見ていた。冬子夫人も、近所の人との井戸端会議の輪にはいり、その婦人たちがここで生まれた3人の子女たちの出産を手伝った。

「夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のやうに光った。組合の人達は、仕立屋や質屋の前あたりに集まって涼みがてら祭の噂をした。此の夜は星の姿を見ることが出来なかった。蛍は暗い流れの方から迷ってきて、街中を飛んで、青い美しい光を放った。」(島崎藤村「千曲川のスケッチ」より)

長野県小諸市大手2-4

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