菅刈山公園(西郷従道邸跡) (22 画像)
この公園は、西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道の邸宅と庭園があった場所である。
江戸時代。この付近一帯は旧岡藩(現大分県竹田市)藩主中川家の目黒抱屋敷(別邸)であり、滝や池のある庭園は江戸の名所であったと伝えられている。
従道は明治初年にこの地を取得後、洋館や書院を建造し、庭園も和洋折衷式に大改造を行った。「東都一の名園」ともうたわれ、明治22年には明治天皇の行幸が行われている。
第二次大戦前に西郷家の敷地は旧国鉄等に売却され、庭園は埋められて、戦後は国鉄の職員住宅として使用された。
平成9年に行われた庭園調査で、近代庭園史上貴重な遺構が良好な状態で地中に保存されていることが判明した。このため、区では公演を整備するにあたり、2つの滝や池の一部を日本庭園として復原し、かつて書院のあった場所に和館を新築した。和館には、庭園を望むことのできる部屋やお茶会などのできる和室があり、この公園にかかわる資料などが展示されている。

●本園の由来
現在本園のある場所は、江戸時代、豊後岡藩の大名、中川家の抱屋敷(抱地=「大名が自ら購入した土地」に構える屋敷)があった。当時、池泉回遊式の美しい庭園として、その名を知られていた。
江戸の大名たちは、当時多発していた火災に備え、通常は上屋敷に住み、中屋敷・下屋敷(抱屋敷)を避難所と保養所を兼ねた別邸として使っていた。特に下屋敷(抱屋敷)は、江戸の中心を離れた郊外に建てられていたので、豊かな自然を利用して、庭園の充実に力を注がれる事が多くあった。
※下屋敷と抱屋敷の違いは、「下屋敷」が将軍から下賜されたもので、自由な売買が制限されていたのに対し、「抱屋敷」は各大名が自費で購入したものだったため、その売買取引等が比較的自由だった点にある。

●中川家の土地入手
明暦の大火のあった翌年(1658年)、7万440石の大名、豊後岡藩中川修理大夫(藩主の世襲の名称)は、石川太兵衛より譲渡された土地に、周辺の土地を買い足して、約2万5千坪の広さの抱地とし、1665(寛文5)年には、屋敷を普請した。
この地域は古来から、豊かな地形に恵まれていた。地域の北東側には豊かな森林丘陵地があり、その麓には自然に発生した蛇池があった。丘陵の中腹には湧水があり、常に蛇池に流れ込んでいたので、蛇池にはいつも清水が充満し、美しい水辺の風景を形成していた。
※蛇池という名称は、その形状が、台地に沿って蛇行しているところからきている。目黒川に洪水が起こると、そのルートが変化し、時の経過と共に隆起した台地の下に、古い川の流れの一部が取り残され、蛇池ができたもの、と推測されている。

●庭園の成立
このような立地条件を活かして、中川家は、島を廊下で繋ぎ、出島を有する池泉には楼閣を設け、背景の丘陵部の山腹には観音堂などの宗教的施設を置き、屋敷のあたりには老松や紅葉などを植え、庭園としての設備の充実に努めた。
庭園は、当時の江戸の名所を記した地誌「江戸砂子補正」にも取り上げられた。
それによると、庭の池には蓴菜(じゅんさい)・菱・河骨が茂り、池の上には長い廊下と、2階建の楼閣が建っていた。楼閣は、2間に5間で、20畳敷の、中柱なしの合掌造りの建物だった。2階は「臥虹楼」と呼ばれ、1階には茶室が二間あった。庭の山には、観音堂弘法作石地蔵稲荷、そして古さびた松があり、紅葉が燃えていた・・・と精緻をこらした美しい庭園の様が驚きを持って描かれていたようだ。

●屋敷の利用と中川家時代の終焉
この屋敷は藩の抱屋敷としての利用のほか、藩主の未亡人であった光顕院の隠棲所としても使われ、美しい庭園は院の心を慰めるよすがともなったと思われる。
一方、1807(文化4)年ごろからは、毎年4月~7月まで、家中の藩士たちの鉄砲稽古場としても使われ、賑わいを見せていた。
しかし、明治維新を機にこの地所は民間に払い下げられ、高畠某(姓名詳細不明)の所有となり、200年続いた中川家の時代も終わりを告げた。

●本園の庭園様式の分析~基本は江戸期の庭園のもの
日本庭園の踏査・研究に多大な貢献を果たした重森三玲は、本園に関して、1937(昭和12)年に著した「日本庭園史図鑑20」の中で、次の様に述べている。
①本庭の最も重要な部分は、大池泉であり、回遊式の大池泉庭園の様式は、江戸時代初期(中川家の時代)に流行したもの。
②北西部に中島を大きく設け、その裏を細き池泉としているところに、傳法院庭園に見られるような、江戸時代初期の地割がみいだされる。
③東部書院前の1段高い池泉から流れによって大池泉と接続する様式も、江戸時代初期の池泉形式。
このように、庭園の基本様式は江戸時代にすでにでき上がっており、明治期の西郷家はその一部の改造を行ったのみである、と分析している。
また、明治期の庭園の設計に影響を与えたと思われる建築設計家レスカスも、江戸期の庭園の地勢を、基本的には保存・推奨したと思われる。というのは、レスカスの生きた時代は、イギリス風景式庭園が主流だった。そこでは、従来の、真っ直ぐな園路や二列に並んだ並木や布状に刈り込んだ生垣などの、人の手による加工の跡を残す事は極力避けられている。湾曲した池泉や蛇行した流線など、自然とどうかした 風景を、作庭に生かす事が求められていたのである。庭園の池泉の、豊かな湾曲曲線は、レスカスの心をもとらえた事だろうと推測される。

●旧西郷従道の洋館
この西郷従道邸においては、明治13(1880)年にフランス人建築家のジュール・レスカスにより、木造総二階建ての耐震仕様の洋館が建設された。鹿鳴館の時代を伝えるこの洋館は、明治期には、和様折衷式の庭園とともに華やかな社交の場として利用されていた。また、1933(昭和8)年には、洋館や書院などの建物と庭園は共に国の史蹟指定を受け、我が国を代表する文化財となった。
この地が旧国鉄の所有となった後、洋館は一時プロ野球の国鉄スワローズ(現・ヤクルトスワローズ)の合宿所として利用されるなどしたが、博物館明治村(愛知県犬山市)に譲渡され、1964(昭和39)年に移築された。
明治村は明治期の建造物の保存と活用を目的として設立され、本洋館の移築を契機に、1965(昭和40)年に開園したが、同時に本洋館は国の重要文化財に指定されている。
本洋館については、平成9年に区が行った調査により、建物の基礎に使用された石が確認され、洋館跡がほぼ正確に特定できた。そこで、公園整備にあたってこの貴重な建物のあった場所の記念とするため、洋館跡を石の縁取りで表示してある。
洋館のバルコニー前にある区内最大のイチョウの木や、芝生広場にある三尊石は往時の場所のまま、庭園の変化を見続けている。

●西郷従道邸のはじまり~土地入手のいきさつ~
旧中川家抱屋敷を含む約2万坪の土地が売りに出されていることは、当時の閣僚にも話題になり、大隈重信、井上馨、山縣有朋らも興味を示したが、皆一様に売値を値切り、購入には至らなかった。 ところが、西郷従道は「このような広大・静寂・風趣に富んだ邸宅を貴方が手離されるにはそれなりの事情があるのだろうが情に於ては忍びないことでしょう。僅かではあるがどうかこの金で邸園と別離の盃をとりかわして下さい。」売値1,200円に100円を添え、売主に渡したということである。この心配りに感激した売主・高畠氏は、樹木や石材はもとより農地で飼育した豚までの一切をそのままに譲渡した、という話が伝わっている。

●農家の如きくらし
西郷邸は、渋谷から目黒につらなって、なかなか広いが(注・約14万坪)、その7割は麦畑、桑の畑、野菜畑で、(中略)庭は木立の山をそのままに使い、手入れをするわけでもなく、ただ渋谷駅から邸に通ずる通りぞいに、楓の樹を植えただけであった。
邸の内部には、水車、米つき小屋、養蚕室などがあり、庭には七面鳥・にわとりなどを飼い、牛を育て、純然たる農家の生活を営んでいた。
華族の別邸とはドーしても思われなかった(「西郷従道伝」より)

●トマトの匂い
明治30年代、菅刈小学校の建っている場所は西郷邸の牧場だった。牛を1~3頭ほど飼い、西郷家の自家用牛乳をとっていた。
野菜も自家用の菜園で栽培し、当時このあたりではどこの農家もつくっていなかったトマトなども栽培していた。(中略)
当時のトマトは今のよりも青臭いにおいが強く、現在の青葉台4丁目(中略)のあたりにまで、そのにおいがただよってきた。
味は今のものよりずっとおいしかった。(小出泉「菅刈小学校100周年」より)

●ひぐらしの声
西郷邸は目黒川に近い低地にあり、すぐ裏は水田であった。広大な庭園を有し渋谷の方向は台地で森林におおわれていたので、邸からみると山のように見え、朝夕2階の窓からみた景色は素晴らしいものであった。
夏の夕方、沢山鳴く日暮しの声は忘れられない記憶である。(中略)
また、林には、ひよどり、かけす、野鳩等がいて鳥打ちもよく行った。(西郷従道孫・西郷従吾氏の回想)

●庭園の利用
明治期においては西郷家の政治的・社会的地位の高さにより、本園を舞台に華やかな社交の場としても利用されていた。
明治天皇が行幸された3日後の1889(明治22)年5月27日、英照皇太后と皇后(のちの昭憲皇太后)も行啓された。
有栖川宮・北白川宮両妃殿下をはじめ、三条、黒田、伊藤、大隈、松方、寺島、川村、榎本といった明治の元勲の婦人が参会し、目黒邸のほか、西那須野にある西郷家の農場で研究された養蚕技術や生産物の展示、松旭斎天一の奇術、薩摩踊りや花柳寿輔連、藤間勘太郎連の手踊りなども披露された。
西郷従道の息子、西郷従徳は西郷従道没後20年に当たる1922(大正11)年、「故元帥西郷従道遺愛庭園公開」とうたって本園を一般に公開し、記念の絵葉書を作成した。
明治天皇の行幸45周年にあたる1934(昭和9)年には、行幸が行われた日と同じ日の5月24日から27日までの4日間、本園及び洋館、書院の特別一般公開が催された。

●西郷従道邸

・東京都目黒区青葉台2-11-25
公式ホームページ
・移築先:愛知県犬山市内山1 博物館明治村1-8

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