旧村川別荘 (13 画像)
旧村川別荘は、村川堅固(東京帝国大学教授、西洋古代史)が1917(大正6)年に設けた別荘である。当時の我孫子は東京から1時間ほどの別荘地として知られ、別荘下の道(ハケの道)を挟んで水田と葦原、美しい手賀沼、冬には富士山が望める景勝の地だった。
堅固は、旧制第五高等中学校(熊本)在学中に校長であった嘉納治五郎(教育者・講道館創設者)と親交を結んだ。嘉納から「巴投げ」を習ったという逸話があり、大学卒業後も一時期秘書を務めるなど、終生変わらぬ師弟関係を結んだ。嘉納は我孫子に別荘を設けており、堅固がここに別荘を設けるきっかけになったといわれている。
1921(大正10)年には、別荘に行く道(子の神道)付近にあった我孫子宿本陣離れを移築・一部改装し、母屋とした。当初は茅葺き屋根だったが現在は瓦葺きに変わっている。
また1927(昭和2)年には、東京帝国大学が平壌で行った朝鮮古蹟調査(石巌205号墳発掘調査)に随行し、その際現地の建物から得た印象を元に新館を建てた。新館は1923(大正12)年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしている。沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴的である。奥にあるのは寝室兼書斎で、青く落ち着いた漆喰壁を配し、ベッドと机を入れていた。
堅固は趣味の釣りを通じて我孫子の景観を愛し、昭和初期の手賀沼干拓計画に対し我孫子在住のジャーナリスト杉村楚人冠(そじんかん)、嘉納治五郎らと共に環境保全を訴えた(「手賀沼保勝会」)。
堅固は1946(昭和21)年に亡くなったが、別荘は息子の村川堅太郎(東京大学教授。西洋古代史)に受け継がれ、堅太郎は我孫子在住の郷土史家・小熊勝夫や東京大学教授で東洋史家の大家・西嶋定生(白山に居住)と親交を結んだ。また、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けた。1991(平成3)年の堅太郎没後、自然環境を残し、別荘地として開けた我孫子をしのぶものとして文化的価値が極めて高いことから、2001(平成13)年に我孫子市が購入して保存、2007(平成19)年には市指定文化財となった。
手賀沼を一望する景勝地として知られていた子の神(現延寿院)境内に隣接していて、樹木が豊かで湧水の痕跡もあり、水と緑が豊かだった昔の我孫子の景観をよく残している。

●村川堅固(1875~1946)
村川堅固は1875(明治8)年、熊本に生まれた。幼少より勉学に優れ、熊本にあった第五高等学校を経て、1898(明治31)年に東京帝国大学文学部史学科を卒業した。欧州留学を経て、1912(明治45・大正元)年には東京帝国大学教授になり、西洋古代史を担当して学生を指導した。1935(昭和10)年、大学を定年退官して名誉教授に就任、戦後間もない1946(昭和21)年に逝去した。
主な著書は、西洋上古史、希臘史、世界改造の史的観察、米国と世界大戦。

●村川堅太郎(1907~1991)
村川堅太郎は1907(明治40)年東京生まれ。1928(昭和3)年には東京帝国大学に入学、父親と同じ西洋古代史を志す。1947(昭和22)年には東京帝国大学教授(この年東京大学に改称)になった。ギリシャ・ローマ研究では国際的に注目を浴びる論文を書いたほか、研究旅行の体験から書いた「地中海からの手紙」は1959(昭和34)年の第7回エッセイストクラブ賞を受賞した。また山川出版社刊の「高校世界史教科書」は多くの高校で採用された。1968(昭和43)年、東大を定年退官して名誉教授となり、日本学士院会員として活躍した後、1991(平成3)年逝去した。
主な著書は、地中海からの手紙、古代游記、ギリシアとローマ、オリンピア、古典古代の市民たち、村川堅太郎古代史論集。

●村川家住宅

・千葉県我孫子市寿2-27-9
公式ホームページ

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