三樹荘跡(柳宗悦居宅跡)・天神坂 (14 画像)
1896(明治29)年に常磐線が開通し、我孫子が鉄道によって東京と1時間あまりで結ばれるようになると、静かな手賀沼を望む丘の上は別荘地として注目されるようになった。柔道の創始者であり、教育者として著名な嘉納治五郎が我孫子市天神山(三樹荘東側隣地)に別荘を設けたのは1911(明治44)年のことであった。翌年には嘉納の姪である柳直枝子(やなぎすえこ)がこの地に別荘を構えたが、敷地内には「智・財・寿」の木として村人の尊崇を集めていた3本の椎の木がそびえることから嘉納が「三樹荘(さんじゅそう)」と命名した。その後、直枝子が谷口尚真海軍大佐(東郷平八郎副官、後の海軍大将)と結婚したため空き家になったが、1914(大正3)年、直枝子の弟である柳宗悦(宗教哲学者、民芸運動提唱者)と兼子(旧姓中島、声楽家)がここで新婚家庭を営んだ。1921(大正10)年に東京に転居するまでの約6年間に手賀沼とその周辺に息づく自然と文物を観察し、のちの民芸運動につながる思索を深めた。また柳を慕って白樺派同人である志賀直哉武者小路実篤が相次いで我孫子に移住したほか、イギリス人陶芸家バーナード・リーチが三樹荘で窯を築いて作陶に打ち込むなど、三樹荘は文芸発信の拠点となった。柳は我孫子を離れるにあたってこう語っている。「思想の暗示やその發展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負ふた事であらう。(略)余は住みなれたその室に別れるのをつらく思ふ。」(「我孫子から」)
柳が去った後、三樹荘には田中耕太郎(最高裁判所長官)、河村蜻山(かわむらせいざん、陶芸家)が居住し、1953(昭和28)年、村山正八氏(歌人)の所有となった。柳が居住した建物は残っていないが、名前の由来となった三本の椎の木は今も手賀沼を見下ろしている。

千葉県我孫子市緑1-9-13

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